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Onomaブログ

同人創作サークル「Onoma」のメンバーが、自分の考えや思想を垂れ流すブログです。

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【ポエム】創作者の生存戦略的な何かをだらだら考えた

こんにちは、まんじゅ(´ん`)です。
いつもどおりTwitterをだらだら見てたら、こんなTogetter(Twitterの投稿をまとめるWebサービス)の記事を見かけました。

イラストの無断加工・転載・配布と「作者以外は再利用すればするほど画質が超劣化していく画像フォーマット」の話 - Togetterまとめ

うんうん、わかる。
あると良いよね。そういうデータ。
違法コピーは良くない。経済が回らない。
ましてや作者の意図とは違う使われ方をしたら更にひどい。

しかし、ここで僕の思考に魔が差したわけです。

「そもそも創作物って、どうして作り、求められるのだろう」

ということで今回はこれについてダラダラ今の考えをまとめるためにこの文章を書いているわけです。
駄文に付きあわせて申し訳ないです。

とりあえず以下のような感じですすめるつもりです。

  1. なぜ作るのか
  2. なぜ求めるのか
  3. なぜ、作者の意図とは違う使われ方をするのか
  4. もうこうなったら、N次創作自由な文化を作るしか無いじゃない!

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『Kagegisu the wonder』その1~「思想」と「つくるもの」~

はじめまして。サークルOnomaの所属メンバー、「かげぎす」です。ペンネームもこれでいこうと決めています。よろしくです。

 

今後は、ちょくちょくとブログを更新していきます。これを通じて、僕たちの存在をみなさんに少しでもアピールしなければと思っています。

 

他のメンバーであるまんじゅさんに、さっそくブログを書いていただきました。ありがたいです。言いだしっぺの僕が後に続くかたちになります。なにやってんだ。

 

さて、僕が更新していくであろうこのブログでは、僕の「思索」を綴ろうと思っています。日記を書いたって仕方ないし、そもそもそんなものに誰も興味ないだろうなというのが理由です。

 

日記よりも、「僕はこう思うのである!」ってなことのほうが、価値があるはず。

 

なぜかと言いますと、このブログで書かれたことを、Onomaの活動に直接・間接的に活かそうと思っているからです。

 

僕のブログ名は、『Kagegisu the wonder』です。僕が不思議に思ったこと、ある事柄についてどう考えたか、あるいは本を読んでなにを得たかというようなことを、このブログで主張します。アウトプットするのです。

 

Onomaのメンバーである僕が、ふだん、どのようなことを考えて生きているかをみなさんに知ってもらうというのは、とても大事なことなのかもしれない。これが、ブログの目的のひとつです。

 

大雑把に言ってしまえば、広報活動(?)みたいなものでしょう。こんなん考えてまっせ~と、みなさんにお伝えするわけです。ブログの更新をするだけでも、Onomaというサークルが一応は活動っぽいことしてるんだなと思っていただける、という目論見です。

 

実は目的はもうひとつあります。こちらは、かなり僕自身に関わるものなのですが・・・。以下、その目的についてです。おそらくこれが、僕のブログの記念すべき「初語り」になるでしょう。

 

自分の考えを主張するということは、曲りなりにも自分の「思想」をつくるということになります。それはつまり、自分が世の中を解釈する「ものの見方」「考え方」をつくるということです。

 

思想を語るときが非日常であり、それ以外が日常であるなんてことはありません。思想はエリートと呼ばれる人々だけが生み出すもではなく、僕たちの日常という、とめどない波の中から生じる思考の一部に過ぎません。だからこそ、何かについて考えを巡らせるその過程が、すでに思想なのです。

 

そして次のことが言えます。世を解釈する「ものの見方」(思想)は、必然的に創作活動に大きな影響を与えることになる。ここ重要。

 

いやいや、そもそも思想と創作って関係あるんかい?

 

関係あると考えています。大アリです。

 

思想と言いましたが、僕にとってそれは、誰しもが必ず持っている「ものの見方」「考え方」という定義で十分な言葉です。

 

「思想」と聞くと、「難しそう」とか、「俺には関係ない」なんて思われる方もいらっしゃるでしょう。

 

しかし、コムズカシイ学術用語で語られる「思想」というのは、学者さんたちがコムズカシイ言葉を使って論じるからそうなっているだけなのです。

 

もっとぶっちゃけて言ってしまいましょう。

 

難しいとされる思想家の本ほど、得てして大したことは言ってないのです。むしろ、そうした本は、それこそコムズカシイ用語や言い回しでケムにまいたりしていたりもするのです。

 

とはいえ、思想家(ないし哲学者)も人間です。けっして人間を超えた存在ではない。思想家もまた、われわれと同じように、世の中を解釈する「ものの見方」「考え方」を有しているイキモノにすぎません。人間これ平等です。素晴らしいですね。

 

まぁ、時代を問わず、まるで自分が神の視点に立ったかのような物言いで偉そうに語る思想家はいますが、そういうときは言ってやりましょう。「なにを偉そうに!世間知らずの甲斐性なし!」

 

えーつまりですね。長くなってしまいましたが、思想はもともと誰しもが持っているものであり、思想家と一般ピーポーとの違いというのは、突き詰めて言ってしまえば、自分で自分のことを思想家と称するか否かにすぎない、ということです。思想に国家資格なんてありませんから。思想家として身分を保証する証明書もバッヂもないです。

 

僕という一個人は、思想や哲学の論文を書いて学者センセイから評価をもらおうなんて思ってもいないです。しかし創作という行為はですね、論文とは違った思想(ものの見方)の表現形式なのだと思っています。

 

言い方を変えれば、創作物には、たとえ当人が意図せずとも必然的に著者の「ものの見方」「考え方」が反映されている、というわけです。

 

物語のなかで「悪者」が出てくれば、そこで僕たちは、作者がどのように「悪者」を解釈しているかを伺うことができるでしょう。「いいやつ」も同様です。

 

物語の舞台設定(世界観)なんかも、顕著に思想がみられます。まさに典型だと言えるでしょう。

 

例えばみなさん、『We Will Rock You』というミュージカルをご存知でしょうか?これは、ブリティッシュロックバンドを代表するQueenの楽曲で構成された作品です。内容はこんな感じです。ウィキのコピペを引用しましょう。

 

遠い未来、皆が同じ服を着用し、同じ思考を持ち、同じ行動をする世界で、思考、ファッション、ライヴ・ミュージックの自由を取り戻そうとするボヘミアンについて描かれる。この世界では楽器や作曲が禁じられ、ロック・ミュージックは世の中の人はほとんど知らない

 

僕的には、あらすじを読んだ時点で、はっきり言って陳腐すぎるだろというのが率直な感想です(笑)ありがちなSF設定すぎてお腹いっぱいだよぅ・・・。Queenは好きだけどさ。

 

まぁ、内容はどーでもいいんです、ここでは。ともあれ、このあらすじ(世界観)には思いっきり思想が反映されていることがわかりますよね。

 

この脚本をつくった人が、「NO FREEDOM, NO LIFE」と言うことがあったとしても、「NO SOCIALISM, NO LIFE」なんてこと、死んでも言わないでしょう。

 

このミュージカルには、わかりすぎるくらいに、作者の「ものの見方」が表現されています。“自由ではない世界”を物語のスタート地点にするということは、その向かう先、ゴールとして“自由な世界”が含意されているわけです。

 

裏返せば、物語のゴールが作者の大事な主張(思想)であり、スタート地点はそのアンチテーゼとして位置づけられている。自分の思想とそれに反する思想(的環境)をしっかりと物語に据えることで、物語の目的地が明確になり、躍動が生じますね。このミュージカルはお手本です。

 

小説に限って言いますと、世界観だけでなく、キャラクター設定、キャラクターの言動、挙動といったあらゆる一切の描写ひとつひとつに、作者本人の人となりが表れてしまうものなのです。

 

つまりこんな言い方もできます。創作物は、作者の知的水準(思想)を超えることができない。あくまでその産物である。作者よりも頭のいい「天才」キャラはつくれません。作者の持っている知識の範囲でしか、「政治家」は描けません。作者の知らないことは、キャラクターも知りません。作者の知的水準が物語の上限(天井)です。それゆえキャラクターの知的水準は、けっきょく作者の知的水準よりもどれくらい下なのかで決まります。

 

「自由とは何ぞや」と一度も考えたことのない無垢な小学生が自由をテーマにした作品をつくることができるでしょうか。不可能です。自由なんて目に見えないものよりも、目の前のポ〇モンに関心があるに違いありません。

 

「ちくしょう、自由って一体なんだー!」と自問自答を繰り返したり、それを問わざるをえないような経験を蓄積することを通じて、「俺にとって自由とはこれだ!」というひとつの答えをつくりだすことができたとき、はじめて自由というテーマを得るわけです。そしてこの考えることを通じて、自由を語るための「ものの見方」の深さ、すなわち知的水準が高まっていくのです。

 

「雨の中、傘を差さずに躍る人間がいてもいい。自由とはそういうことだ」

 

このセリフは、ロボットアニメ『BIG-O』の主人公、ロジャー・スミスのものです。あっさりとしたセリフですが、なかなか深いですよ、コレ。まさに考えさせられるセリフのひとつだと思います。

 

とはいえこれはもちろん、架空の人物であるロジャーの言葉にしか過ぎません。しょせんは創作物ですから。ロジャーの生涯、人格、住居を含めたあらゆる一切が妄想の産物です。しかし、彼のセリフを考えた人物は現実に存在します

 

当たり前すぎますよね。自分で言っていてそう思います。しかし、だからこそ大事なのです。当たり前だからこそ「基礎」なのです。

 

僕が上に挙げたロジャー・スミスのセリフが深いと思ったなら、それはけっきょく、セリフを考えた人の考えが深いという共感なのです。

 

世にはすばらしい創作物がたくさんあります。ある作品をきっかけに、自分の「ものの見方」が変わってしまった、なんて方もおられるでしょう。人に感銘を与えることのできる作品を生み出すというのは、創作者の何にも代え難い幸福です。

 

だからこそ、人に影響を及ぼすだけの作品をつくるためには、作者自身が、日々成長していかなければならないのです。もちろんそれは肉体的な成長のことではありません。精神的なものです。マインドです。人よりも深い思想(ものの見方)をつくりあげることが、自ずと精神的な成長へとつながっていくのです。結果として、それは作品にも反映されることでしょう。

 

 

 

え~~~~~~と。また遠回りになってしまいました。

 

いきなり創作論みたいなものをぶちまけましたが、これをふまえた上で、あらためてこのブログのもうひとつの目的の話に戻ります。

 

自分のOnomaにおける創作活動が有意義なものとなるために、ブログを書くことで自分の思想(ものの見方)を鍛え、成長する。それが、このブログのもうひとつの目的なのです。

 

 

そうさ、人生は死ぬまで勉強だ!
        
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